プロフィール
平 勇人(たいら ゆうと)氏
岐阜大学農学部獣医学科を卒業後、岐阜県畜産研究所にて繁殖和牛の管理と子牛の下痢症予防研究に携わる。その後、愛知県岡崎市にて酪農を中心とした家畜診療に従事し、牧場業務も経験。2017年に株式会社ファームノートに入社。獣医師目線でのプロダクト開発に従事。その後、株式会社ファームノートデーリィプラットフォーム(以下FDP)にて自社牧場の立ち上げを経て、現在に至る。
人のために生きる牛を、なんとかしたい。獣医師から今に至るまで
―― 平さんがこれまで、どのような経緯で酪農に関わるようになったのかお話を聞かせてください
出身は、兵庫県稲美町という人口3万人くらいの町です。大学で獣医学を学び、獣医師として社会人生活を送ってきましたが、もともとは農業をやりたかったんです。両親は会社員と公務員でしたが、祖父は農家で一生懸命に働く人でして。農業に入れ込んでいる大人が近くにいたことで、それを見て育ったことも影響していると思います。
―― 獣医の道を目指したきっかけは
大学 4 年のときに診療で、生まれたときからの疾病によって育てることが難しい和牛の子牛を診たことがありました。農家さんからも「共済で廃用にするしかない」と。でも、当時あんまり深く考えてませんでしたが「保険金と同じ金額を払って、買い取ってください」と、大学の先生に言ったんです。そうしたら先生が面白がって買い取ってくれて。
そこから自分たちで育てて、出荷して、屠畜するところも見に行って、お肉を買って食べるといった農業高校でやっているようなことをしていました。そのときに改めて、「面白いな」と。大学卒業するときには「牛に関わる獣医をやりたい」というのと「牛を飼いたい」という思いがセットでありました。
―― 牛のどのあたりに「面白い」と感じたのでしょうか
牛は「産業動物」と言われていて、勉強して思ったのは「生産性が高まりすぎて病気になる」というところに感銘を受けました。「人のために生産してくれて病気になる」なんて、それは「獣医師として何とかしないと」みたいな思いが一番最初にあったと思います。
―― 大学卒業後の経緯を聞かせてください
大学卒業してすぐ、自分で「牛を飼いたい」という思いがあって、岐阜県の畜産研究所へ入りました。そうした研究所は牧場と一緒にやっているところが多く、牧場で働きながら研究していました。その後、将来的にはどこかで牛を飼ったとき「病気になっても治せるようにしたい」という思いから、愛知県へ移って公務員として診療をやっていました。
―― どのような内容の仕事になるのでしょうか
主にペット以外で、農家さんの牛・豚・鳥、あと動物園の動物の診療もしていましたね。象とか馬、ヤギも診ました。他にもニワトリのワクチンのプログラムを考えるようなこともしていました。それと当時は朝から夜まで診療をやって、夜に事務所に帰ってきてからカルテを手書きやエクセルで書いていまして、それが大変でした。当然クラウドなど無かった時代なので「FileMaker」というノーコードでアプリを使って、電子カルテのシステムをつくったりもしました。
―― 業務の効率化もやっていたんですね。ファームノートとのつながりもその頃からでしょうか
そうですね。診療を辞めた後、1年くらい別の牧場で働いてたときに、その電子カルテのシステムを自分で管理できる機能を付け加えたりして。それは今のファームノートのソフトウェアでできることの一部でもあります。その頃から「これから ITツールを活用して、もっとこの業界の業務を効率化することで、生産性の向上にもつながるだろうな」と思っていて。そうしたことを事業化できないかと思っていたときに、ファームノートがすでに事業化していると知りました。
もともと希望農場だった牛舎をFDPの牛舎として利用している
「1%」の経営者としての大きな責任
―― ファームノートには、どのように合流したのですか
当時、獣医師の採用はしていなかったはずですが、「社会的に意義のあることをしていると思うので頑張ってください」みたいな応援メールを一方的にしたことを覚えています(笑)。それから何度か今の代表の小林や下村と一緒に、ご飯を食べたりしているうちに採用が決まった感じです。そのとき、小林から「いつか牧場をやりたいと思っている」と話していた記憶があって。正直、本気度がどれだけあったのかは分かりませんでしたが、実現して今に至ってますね。
―― いつくらいの話になりますか
2017年の 3 月くらいです。最初はファームノート製品を使っている生産者をサポートする仕事をする予定でした。でも、すぐに開発の方へまわり、大体 2 年くらい機能開発の仕事をやっていたタイミングで「牧場を立ち上げるぞ」という話になり、FDPの立ち上げとなりました。
―― 当時から平さん自身、牧場をやりたいという意思は伝えていたのですか
もちろん「やりたい」という意思はありました。でも、「はじめたら帰れなくなる」というのは自分で分かっていたので、迷いは有りましたね。実際、家族とも離れて現在は、単身で中標津にいるので。でも、「やらないといけない」というのと「やりたい」という思い、両方強かったです。というのも以前、診療していたときに働いていた牧場で、将来的に後継者がいなかった牧場で「自分が引き継げたら」という思いもあって働いていたんです。結局、実現しませんでしたが「牧場を引き継ぐハードルの高さ」をそのときに知りました。
―― そのハードルとは、とくにどのようなことですか
お金や獣医の知識と技術も無いといけないし、土地や畑、業界の知識や経験。それと、ファミリービジネスなので引き継ぐときの、人間関係の難しさや地域のこと。あと、自分も結婚して子どもがいたので、家族は応援してくれてたとはいえ、親族を含めてやっぱり色々と難しさがあって一度、断念したんです。そのときに個人で牧場を持つことや、新規参入する難しさを実体験としてすごく感じましたね。なので会社という仕組みを使って、牧場を立ち上げて運営していく仕組みを「自分の手でつくっていきたい」という思いを持っていました。
―― 実際に立ち上げに加わって代表となった今、何か心境の変化などありますか
立ち上げ当初から事業を成長させて「この業界や地域に貢献していきたい」という思いは変わりませんが、一番大きな変化は「すべての責任を自分が負う」ということですね。これまでは代表になる前から99% 私がやった仕事だとしても、最後の 1% は、私の責任じゃない部分があったと思います。はじめて代表になって、その 1% がめちゃくちゃ大きいなと。その 1% の違いが「会社全体に大きく影響を及ぼすことになる」といったことを今、実感しています。
あともう一つが、今までは「事業がどうか」という考えをしてたんですけど、会社の代表になると「会社として、その地域や業界からどう評価される存在にならないといけないか?」ということを考えるようになりました。今までなかった訳ではないんですけど、地域の方々と連携して信頼を得ながらやらないとできない仕事なので。
FDPの職員も牛が好きな人が多く、北海道外から来ている人も
コロナという苦しみと引き換えに得たもの
―― ここ数年コロナ禍による飼料の高騰など、様々な問題があったかと思います。そうしたなかで地域外から中標津町へ来て、酪農業をはじめてみたからこそ見えた課題や地域の現状について聞かせてください
コロナの影響はかなり受けましたし、今日までずっと影響を受けています。会社として本当は初年度から 1,400 トン絞りたかったんですけど、すぐに生産の上限をキャップされて 1,100 トン以下しか絞ることができなかった。なので、いきなり売上で 3,000万円をロストするというところからのスタートでした。
―― スタートからいきなり大きな損失ですね
皆さん共通ですけど三重苦、四重苦みたいな状況でしたね。とにかく収益性という意味では、めちゃくちゃしんどかったです。今、ようやく黒字化しはじめているというところですが、そこまで 3 年、4 年かかりました。この業界だけじゃないにしても大変なタイミングでしたね。
FDPの牛舎内にある、牛が搾乳されたいときに自ら入り、自動で搾乳するシステム
―― 大変なタイミングだったからこその気付きや学びなど、何か得たものはありましたか
とにかく学びが多かったです(笑)。今回の生産抑制とか、そこに至る経緯、その地域や北海道、指定団体といった方々が「どう考えて、どう動いているか」というところが見えたというか。組合員と言えど、やっぱり外から来ている新参者なので分からないことも多かったんですが、「この業界が構造的に抱えている問題がある」ということ。それをこの事業をはじめた初期の段階で理解できたというのは、すごく大きな意味があると思います。
―― 構造的な問題とは
農林水産業を中心とする国や行政、それと農協や乳業メーカーさんを含む業界全体の構造的な課題ですね。身近なところでいうと指定団体が中心となって、どこにどれだけの生乳を振り分けるか?といった機能を果たしていますが「本当にこれがみんなのためになっているのか?」 と、いろいろと考えさせられました。生産抑制の影響って我々みたいに新しく入ったところや、設備投資した人が大きく影響を受けていて、そのときは本当に辛かったですね。でも、結果的にそれを経験できたという学びが大きかったです。
この業界に入って 4 年目ですけど、 農業って 1 回はじめると、辞めようと思ってもそう簡単に辞められるものではなくて、20 年 30 年と、ずっと続けていくべきものだと思っています。そのなかで「生産者として、どうしていくべきか?」という視点で、会社の戦略にまで反映できるようになった。それが、この3年間で苦しみと引き換えに得たものだなと感じます。
ファミリールールや組織における、農業全体の問題
―― 先ほど農協や乳業メーカーの課題について触れていましたが、もう少し詳しく聞かせてください
農協さんが地域社会に果たしている「貢献度の大きさ」が分かりやすいですよね。厚生病院で生まれて、Aコープで買いものをして、JAバンクがあって、ホクレンでガソリンを入れて、葬儀事業までやっている。生活の基盤というか、ゆりかごから墓場まで地域社会そのものを支えていると理解できる。そのなかでコロナのときの対応や、未来に向けた対応というのも肌身で感じるものがあって。批判云々とかではなく、ただ私が事実ベースでそう感じているものがある。
―― 誰がどうとかじゃなく、構造的にそうなっているものがあると
酪農業を問わず全ての組織においてですが、今いる既存の人材で特に経験を長く重ねてきている歴史が長いほど、その組織は「新しい課題を解決するための組織ではない」ですよね。今まで繁栄してきた光景と「これからの課題をどう解決できるか」という話は、別の話だなと思っています。本当は対応してもらったらいいのかもしれないですけど、正直対応できないだろうなと。そうした点にこそ「ファームノートグループとしてできることがある」と私は感じています。
―― そのくらい切迫してきている問題ということですよね
本当 30 年、 50 年後の話なら、まだ言わなくてもいいかなと思いますが、おそらく 5 年後、 2030 年には日本全体の農業がダメになっていると思っています。北海道はまだマシだと思いますが、10月に施行される農林水産省で「スマート農業技術活用促進法」という法律が 6 月にできて、そこで設定されている課題が「とにかく農家がいなくなる」ということなんです。酪農だけじゃなく、全農業を含めた農業者ですね。
現在、農業をやっている人が 1,223万人いるんですけど、それが 2030 年には 60万人になるんです。 2040 年には、 20 数万人まで減る。単純にいないんです、本当に。そのなかで私たちがやっていることって「牧場をただやっています」といったことだけじゃなく「誰でも酪農業ができるようにすること」だと本気で思っています。
牛と関わる仕事を、やりたい人がやれる環境をつくっている
―― 誰でも酪農経営できるようになるには、そもそも現在のハードルが高いように感じます。どうすればできるでしょうか
少し話を戻しますが、私の母方の祖父が農家をしていて私自身、農業をやりたいと思っていました。母方の祖父から見ると私は分家の息子なんですが、分家は家業を継げないんです。別に悪気があった訳ではないと思いますが、地域によって土地や家業を相続できないという、そうした「ファミリールール」が当然としてある。北海道でも農家や家業を継ぐといえば、長男みたいな。
―― たしかにありますね
そうしたなかで「やりたかったけどできない」というケースがあるのと同時に、「やりたくないけど、長男なのでやらざるを得ない」といったケースもあると思います。別にそれがいいとか悪いとかじゃなく「やりたい人がやれて、やりたくない人は別にやらなくてもいい」というのも当然あっていい。そうしたことも含めて、私たちみたいな会社が「誰でも牧場経営をできるようにする」というのは、存在意義があることだと思っています。
―― 会社という仕組みを生かすと
今、遠軽町でやっている牧場も私たちがそのまま引き継いだケースで、採用や経営、資金的なサポートなど、そうしたことは会社で引き受けられる。そこで牧場で働きたいという人を採用して、その人は経営をしなくても牧場で働ける。本当の意味で、独立経営して牧場やるのはハードルが高いですが「会社員として牧場で働く」というのは、すごくバランスがいいと思っています。
―― 牛と関わりたいけど、経営となると難しいという
そうですね。あと、新規就農者を受け入れて育てていくことも正直そんなに多くないというのと、基本的に夫婦が大前提だったりというのが、この辺りでもまだある。独り身で継ぐというのではなく「まず伴侶を見つけてからもう一回来てください」と言われちゃうんです。
―― ますますハードルが高いというか、今の時代では無理な感じもします
なので牧場を誰でもできるような仕組みを会社が受け皿となって「牧場で働きたい」という人が牧場で働く。実際に私もそうですが、経営したいなら雇われの牧場長でもいいと思います。この業界は本当に人がいなくなるので、「誰が生産するのか?」という時代が 5 年後とか 10 年後にはやってくる。そのなかで今少しずつですけど、やるべきことを実現していっています。
―― 実際に行われているのが希望農場さんとの取り組みでしょうか
―― 牧場経営や牛を飼うのに向いているタイプの人とかありますか
平さんの取り組みを味わえるお店
実は「ushiyado」に1年以上、住んでいたことがあるんです。そこでウエルカムドリンクとして「中標津牛乳」が振る舞われているんですが、それが美味しいんですよね。北海道に来る前から牛乳は好きで飲んでましたが、その体験に感動したことをまだ覚えています。ぜひ、中標津へ滞在のときに「ushiyado」さんで体験してみてください。