中標津町で酪農を中心とした農業を営む、有限会社 希望農場の佐々木 大輔さん。ライフワークは「まちづくり」と話す佐々木さんは「酪農家という道を選択せざるを得なかった」と、これまでの道のりを振り返ります。
酪農家の長男として生まれてきたこと、家族経営の壁・地域の壁・組織の壁など様々な課題を越えて、現在は地域の未来のために「牛乳」ではなく、中標津町産のウイスキー誕生に向けて原材料となる「大麦」を生産しています。「ここで生きていくしかない」と現実を受け入れながらも、「農業があるからこそ、このまちが守られて、発展している」と話す佐々木さんの地域愛と反骨精神。そして、未来のこどもたちに対する責任についてお話を伺いました。
プロフィール
佐々木 大輔(ささき だいすけ) 氏
有限会社 希望農場 代表取締役。中標津クラフトモルティングジャパン 株式会社 代表取締役。1970 年(昭和45年)生まれ、北海道標津郡中標津町出身。北海道中標津高等学校卒業後、2年制の北海道立農業大学校 畜産経営学科へ進学。その後、20歳から実家の佐々木牧場で酪農に携わる。これまでJA中標津青年部部長、JA根室地区青年部協議会会長、JA北海道青年部協議会副会長、JA北海道青年部協議会顧問を経験。現在は、中標津町の未来につながる、オール中標津産のウイスキーづくりに挑戦している。
価格決定権を持つ夢と、酪農のリアル
―― 佐々木さんは酪農業だけではなく小麦や大麦の生産をされていますが、畑作の事業をはじめた経緯について聞かせてください
もともと酪農業だけやっていたところに現在、縁があってファームノートさんと酪農事業を展開しています。そのお陰もあって、この地域の次の産業となる「畑作」に私自身、力を注ぐことができている状況ですね。
―― これまで中標津町の畑作は、どのような状況だったのでしょうか
近年の気候変動の影響によって、以前と比べていろいろな作物がつくれるようになってきているのですが、昔から「ここは牛だから」といって、酪農にしがみついているように感じます。海外においても実際にヨーロッパへ視察に行きましたが、牛を何千頭も飼っている牧場が「乳価 25円で、コスト 31円かかっているんだよ」と平気で話していて。
―― 成り立たないですよね
でも、そう言いながら広大な面積の畑作もきちんとやっているんです。小麦だったり、ジャガイモや菜種だったり。それは、国民がその国の食料をきちんと下支えしているところに立脚していて、その国で食べる食料、もっと言うとそこから出る「残さ」がエコフィード(家畜飼料)になっている。
―― とてもいい循環ですね
とは言っても世界的に酪農や牛乳にまつわる政策というのは、なかなか難しいところがあって安定しないんです。であれば政治、または乳業などの組織へ、私たちも言いたいことは山のようにあるし、言うべきことは言わなきゃならない。そうしたなか「私だけでは酪農業を守っていくことはできない」と思っていたところに、株式会社ファームノートのような新しい技術を持つ人たちと出会った。また、そうした新しい人たちと一緒にやることによって、「この地域の酪農が続いていく」と思っています。
―― ファームノートさんとの取り組みによって得たものとは
ファームノートに小林という代表がいるんですが、象徴になるような人物ですね。いわゆるビジョンを掲げる人。おそらく私もそうした仕事をしないとならないのだろうと思いました。「将来、この地域がこうやって出来ていくんだ」というビジョンを人に見せて推し進めるところ。それと最後は、責任を取ることだと思います。私にできるのは、そういうことなのかなと。
―― 最後に責任を取るというのは重大な役割ですよね
農業というのは、一事業者ですから。破綻したら当然、責任を取らないといけない訳ですよね。だけど今の世の中、誰も責任を取らないように感じます。責任を取らない仕事に、成果は無い。そこに覚悟が無いので。自分が自信を持って出した政策や、事業計画というのは、自分の責任のもとにあるものだと思います。そういうことをリーダーは思っていないといけない。
―― 今、佐々木さんが一番力を注いでいる事業について聞かせてください
ウイスキーになる前の国産モルトの原料です。「牛乳をやっていて、なぜお酒か?」と言われますが。正直な気持ちとしては「自分たちで価格決定権を持ちたい」という農家の夢があります。大体のものが「誰かが勝手に決めた値段」で、淡々と牛を飼うんです。言い方が悪いですが奴隷です、言ってみたら。
―― 実際に従事していて、そう感じますか
牛が嫌いで酪農家をやっている私にしたら「どうやったら儲かるか」という考え方を若い頃から持っていました。「こんなに大変な仕事をやっているのだから、サラリーマンより何倍も収入が無いと、やっている意味がない」と思えてならなかった。でも、農業や経営をやっているなら、自分の思ったことを形にできる。
―― サラリーマンにはできないことですね
言われたことだけを淡々とやって、そこに心があるかないかと言われたら無い人の方が増えてきている時代のなかで、まわりの農家を見たらサラリーマンと変わらない。こういう仕事をやっているからには、自分が思ったビジョンを追求して実現しないと。私は「60歳過ぎて搾乳はできない」と30代のときに思いました。朝早く起きて、夜遅くまで仕事するのは日常ですから。だから私が話していることは、怠け者の発想ですよね。真面目な牛飼いから見たら、私なんて異端ではないかなと思います。
クラフトモルティングジャパンの倉庫内。佐々木さん自身が収穫した大麦が詰まれている
酪農業以外で感じた、ものづくりの喜び
―― これからの新規就農者や担い手問題のことを考えると、現状は難しいものを感じます
そうですよね。やっぱりきちんと休みがあって、給料はそこそこ高い。そして、自分のやりたいことが表現できて「農業はやっぱり楽しい」と思ってもらえないと。きっとやる人はいなくなります。
―― 佐々木さんは、どうしたら農業が楽しくなると思いますか
私自身、若い頃は何の楽しみも目的も無かったです。それでも、16~ 7 年前に初めて小麦を撒いて、それを小麦粉にして、地域のパン屋さんがパンにしてくれたり、ピザにしてくれたんです。そうすると初めて自分がつくったものが「直接、消費者から美味しい」と言われるようになったんです。それが「農業をやっている一番の喜びじゃないかな」と思いますね。
―― 牛乳で、直接そうした声を聞くことはできないのでしょうか
国民のために大規模に牛乳を提供するため、いろんな牧場の牛乳と混ざって、どこの乳業に行ってるかも分からなくて。それが飲む牛乳なのか、生クリームでソフトクリームになっているのか、 チーズやバターになっているのか、という話ですよね。そこに直接、消費者から「美味しい」とは言われないので「農業をやっている喜びって何だろうな」と思います。
―― 自分が絞った牛乳が、ひとまとめにされてしまう
それと家族経営の労働はマンネリしますよね。毎日同じ仕事をするマンネリがあって、でも、そこには生きものを飼っている「生と死」がある。そこに世界情勢、国内情勢が入ってきて「ファーマーとは何だろうな」と。だからやっぱり会社にすることで、経営者としていろんなノウハウを得ることができたのだと思います。
以前は希望農場だった牛舎。現在はファームノートデイリープラットフォーム社が運営
―― そうしたなかから小麦や大麦といった畑作へ移行した感じでしょうか
最初は本当、麦のことは何も分からなかったんです。種を手に入れて、よく分からないけど春に種を蒔いて、芽が出てきたからどうやって管理するのか必死になって調べた。私の場合は、とにかく粉にすることが目的だったので、ものすごく精度の高い選別をして、悪いものを全部取り除いて、いいものだけで製粉をしたんです。だから最初は、ビジネスとは呼べないことをやっていたんですよね。
―― 大麦も同じように試行錯誤を繰り返した感じですか
大麦は、栽培した年からすぐ小樽ビールに行って、担当のドイツ人と話していたら「いいよ、ビールつくってあげるよ」というから、大麦を 300キロ 送って、モルトに加工して中標津のビールをつくってくれたんです。 でも、委託は 300 キロの原料麦で 2000ℓ できる。 330㎖ の瓶で 8000 本以上が1回で届く。そして、賞味期限が 1 ヶ月くらいという、売れる訳がない(笑)。ある程度は分かってましたが大赤字。でも、 2 回目もやったんです。
―― 赤字なのに2 回やったというのは、何か狙いがあったのでしょうか
2 回やったのは、このまちが極めてネガティブだからです。「種を蒔いたら中標津でも、お酒ができるんだ」という現実を、このまちや農家の人たちに知らせたかったんです。「そんなことやってもダメだよ」とか、「どうせ失敗するよ」とか。とにかく発言が後ろ向きだし、なんなら人の足を引っ張るようなところもある。でも、続けたら間違いなく潰れるので(笑)。これを「どう事業化するか」ということをずっと考えて、今に至るというところですね。
―― でも、覚悟を持ってやったからこそ、今まで見れなかった景色が見れた
それはそうです。でも、覚悟というほどの覚悟じゃなくて、絶対に楽しいからです。ビクビクしては全然やってなくて、ただシンプルに考えて。おそらく赤字だけど、酪農で補填できるように麦を畑にすき込んだり、赤字は赤字だけど目に見えない部分で補填されて、また豊かな農業につながるので。赤の部分は、酪農の生産で補えばいいと。
―― 酪農業という柱があったからこそ、できたチャレンジですね
酪農のために小麦をつくっているんです。酪農のためにビールをつくる。「牛乳で、このまちに人は来てくれない。食文化に人は集まる」と私は信じているんです。中標津に行ったら、中標津の食文化が楽しめる。だから人が滞在してくれる。 1泊して食事をして、お金を使って、また次の場所に行くというようなストーリーが無いと、「中標津は通過されるだけのまち」になってしまう。
佐々木さんが想いを込めて収穫した大麦。オール中標津産のウイスキーを目指して
壁しかない人生を、楽しく越えていく
―― 佐々木さんが描くストーリーを実現してきたなかで、これまでどんな壁がありましたか
もう、壁しかないです(笑)。まず、家族や会社のこと。 これはめちゃくちゃ壁でした。
社長がやっていけなくなったときに、私が経営者としてやっていかなければならなくなったけど、それまでやったことない訳です。たまたま付き合いのあった会計士と会社のことを、農作業をやりながら、裁判もやりながら。多分人生で一番高い壁でしたね。裁判のなかでは家族、親族、地域、全部私の敵でしたから。ある種、人間が大嫌いになりましたね。
―― 骨精神のようなところは、そこから影響しているのでしょうか
もう何度もやめようかなと思いました。その時点で、すべてぶん投げて出ていったら一番楽だったと思いますね。
―― そこを投げなかったのは、どういう心境だったからですか
年齢も 40 歳で、子どもがいるし。この仕事じゃない選択肢で、「どうやって子どもを育てるか」という考えは当然ありました。「この子どもたちをちゃんと育てなければいけない、けど農業以外に何ができるのか」と。今だったらいろいろできますけどね(笑)。でも、あの当時はそんなスキルなかったので。やっぱり農場をやらないといけないという、あのときは精神的に結構しんどかったですね。
―― 振り返ってみて、その時期を乗り越えられたというのは
私は、もともと孤独が平気な人間なので。これが人に影響されるようなら耐えられなかった。農家の息子に生まれて、子どものときから親に色々とやられて。一緒に仕事やっても「お前なんかがやったら 1 年で農場が潰れる」みたいなことまで言われて。嫌いですよ、言ってみたらそもそも。
―― 希望農場を続けてくのは、佐々木さん以外に誰もいなかったのですか
弟がいますけど、重度の障害を持っていて施設に入っているので。だから農業やるって、責任でしかないんですよ。地域にとってもそうだし、北海道や日本にとっても農業をやるというのは、責任だけですね。食料をつくったり、国土を守ったり、地域の経済を守りながら。でも、ものすごい利益がある仕事でもない訳で普通、選ばないですよ。選択肢の中に「農業」というものがあったら、私は選ばない。
―― でも、やり続けてきた。その理由というのは
私に能力がなかったからですよ。たったこの 10 年そこそこで、いろんなノウハウがついただけで。つまらない農業に、人間関係、家族関係と、とにかく最悪だった。少しでも農業が楽しくならないとモチベーションが続かなかった。だから変わったことをやったと思うんです。大嫌いな人間しかいなくても、喜んでくれる人間もやっぱりいる。生きがいは、そこにしか見いだせなかった。
佐々木さんの今に至るまでの経緯について、切実な想いを聞かせていただきました。嫌いだった酪農をやるしかなかった反骨精神が、まちづくりへの原動力に変わっていきます。
記事の後編では、酪農家ではなくオール中標津町産のウイスキーづくりに挑む佐々木さんに迫ります。